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執筆者の写真色川 うたごえの会

Rock Magazine、EGO、0g、 音楽の師、編集長:阿木譲氏 追悼。1/3 Facebookから

更新日:2019年9月15日

とてもとても個人的ですが、

ぼくの「うたごえ」の「原点」について、「音楽」についてです。


『ぼくはねぇ、昭和のはじめのうたを聴くと、身動きが出来なくなるんだよ。なんだろうね。』




2019/1/3 18:31 FaceBook

『Rock Magazine』、『EGO』、『Rock Magazine2期』、『E』、『Infra』、『BIT』、『0g』、阿木譲 追悼。


岡山(PEPERLAND主宰) 能勢伊勢雄氏から賀状といつものようにFanzineが届きました。『Rock Magazine』STUFFだった嘉ノ海幹彦氏、能勢伊勢雄氏、からの

阿木譲さんへの追悼文を興味深く読ませていただきましたので、ご紹介させていただきます。特に、嘉ノ海幹彦氏の文章は、僕の見つめて来た阿木譲氏を克明に追想させる唯一の文章です。

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阿木譲そして『Rock Magazine』追想

 嘉ノ海幹彦(FM DJ)


阿木譲氏が10月21日午前11時40分に亡くなっ

た.¶74歳だった。3年前に膀胱がんの手術をし

たが、9月に検査した時にはがんは腹腔内に50箇

所以上に転移していたとのことだった。¶阿木さん

は徹底的に弱みを見せない人で、僕は弱音など聞い

たことはなかった。¶だからお世話してきた雨宮ユ

キさんにも弱音を吐いていなかった、しかし最後の

最後にはユキさんに感謝の言葉を述べていたとのこと。

救われた気がした。ユキさん、よく頑張ったね。でも

寂しい限りです。¶¶音楽に関して僕は、中学生時

代にFM-NHKの上波渡「現代の音楽」とその後

の小泉文夫「世界の民族音楽」を毎週間いていた。

¶平行してドアーズやクリームなども聴いていた

が、シュトックハウゼン、クセナキス、武満徹など

がお気に入リたった。¶1970年高校1年の時、大

阪万博の強烈な体験があった。当時シャープに勤めていた能勢さんもパビリオンの館を通して万博に関わっておられたとのこと。僕は鉄鋼館や西ドイツ館で憧れのシュトックハウゼン、武満徹、ケージなどを見た。もっと後で知ることになるが、ペプシ館ではビリー・クルーヴァー率いるアメリカのEAT(Experiments in Art & Technology)が館の全面的構成を行っていた。一方で、「優しき前衛」と題したブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」のライナーノートで間章の文章にも出会う。¶ライナーノートなのに音楽そのものの解説だけではなく精神や時代のことや間章自身の心象のことが書かれていた。このことは僕はRock Magazine


のレコード評を書くときに影響を受けていた。¶また、文学や芸術にも目覚めた。瀧口修造、澁澤龍彦、加藤郁乎、稲垣足穂が愛読書だった。笠井叡の舞踏も東京へ見に行った。¶同級生と同人誌を作り、音楽評論家秋山邦晴へのインタヴューも行った。¶そして71年工作舎『遊』の創刊号からの熱心な読者だった。書店では異彩を放っていた『遊』を作っている人たちに会いたいと思った。¶同級生の永山薫はのちに工作舎で1979年から始まる遊塾生になった。精神科医の松本順正も遊塾生だったし、山崎春美、後藤繁雄、紙谷正嗣も。¶¶1978年Rock Magazine と出会った。A4の薄い月刊誌のころだ¶Rock Magazineは1976年創刊だが、以前は知らなかった。¶パンクミューシックという時代の亀裂を切り取ったような実験的な音楽とファッションに引き付けられた。Rock Magazine という雑誌はかっこよかった。工作舎の松岡正剛が寄稿しているのが信頼できた。ほかのロック雑誌(ミュージックマカジンやフールズメイトなど)は当時から読んだ事もないし関心もなかった。第一、ロックミュージックと時代との関わり方や時代精神の切り取り方のレヴェルが違った。もちろん本そのもののセンスも違った。間章は最晩年の文章をRock Magazineだけに寄せていた。ルー・リードの記事だった。¶そもそも芸術行為の中で、音楽が時代を一番早く先取りしている。今もそれは変わらない。¶僕はこの段階で松澤宥の美學校「最終美術思考」に行っている友人と福生で東京ロッカーズ(ミラーズ、フリクション、ミスターカイト、リザード、S-KEN)を見ていた。関西でも、アーント・サリー、INU、ウルトラビデ、SS、非常階段などが活動していた。また78年にはブライアン・イーノプロデュースの『No New York』がリリースされる。何か始まろうとしている予感はこの頃からあったのだ。¶そしてしばらくしてRock Magazine紙面で案内されていた心斎橋の「ドムズ」という喫茶店で行われるレコードコンサートに参加した。¶阿木さんってどんな人、Rock Magazine の読者って思いながら行ったことを思い出した。¶そこで後に一緒に仕事をするスタッフ(自分より若い)と出会い、阿木さんとも初めて話をした。¶阿木さんとはずっと音楽以外のことをしゃベリ続けていた記憶がある。Rock Magazine のスタッフはジャーマンロックなど非常に詳しかった。カン、ゴング、ソフトマシーン、ファウスト、グルグル、アシュラテンプル、アモンデュールなど僕は聴いたこともなかったのだ。後で彼らは僕のヨーロッパプログレッシブロックの先生になる。¶¶そのうち毎月レコードコンサートに参加し、阿木さんの住居を兼務したRock Magazine 編集室にも出入りするようになり、編集を手伝うようになる。ちょうどRock Magazine「モダーンミュージック」の編集中だった。大学の時に学芸本部という学生組織に関わり新聞型パンフに「暴力論」という小論を書いたことがある。副題は(破壊なき創造はない)というミハエル・バクーニンの言葉を借りた時代への考察を書いたものだ。ヴァルター・ベンヤミンやオーギュスト・ブランキの都市論を現代の都市に当てはめたものだ。阿木さんはそれを読んで嘉ノ海は文章が書けると思ったのかもしれないが、少し原稿を書かせてくれた。79年4月になり給食会社に就職した後も、レコードコンサートには参加していた。8月に阿木さんから会社に電話があり「今晩時間あるか?」「はあ、ありますけど…」¶「来日しているTalking Heads のインタヴューやるから来てくれ」ということで、これが僕のロック・マガジン社としての最初の仕事になった。ブライアン・イーノのプロデュース『More Songs About Buildings and Food』後の来日だった。¶陽気なアメリカ人という感じのデビッド・バーンだったが、ドイツ表現主義やDADAのことを話題にしてみたら興奮するように話し出した。¶チューリッヒダダのキャバレー・ヴォルテール店主フーゴ・バルの音声詩のことなどだ。なぜ20世紀初頭のスイスで意味のある言葉ではなく、意味性を意識的に排した音声(音響)そのものだったのか。時代と神秘主義と儀式とが一体となったものだったのか,なぜバルの晩年はキリスト教神秘主義の研究をしていたのか。そのような会話が続き予定時間を大幅に超えたインタヴューとなった。しばらくして Talking Heads の次のアルバムで同じくブライアン・イーノプロデュース『Fear of Music』が発表されたが、最初の曲はまさしくフーゴ・バルの音声詩だった。ただしファンクミュージックだったが。¶そのうちバンドのキャバレー・ヴォルテールが「Mix-Up(1979年)」でデビューする。¶スロッビング・グリッスル/ポップ・グループ/ジョイ・ディヴィジョン/バウハウスが出現する。¶当然コメントしていると紙面がなくなるので興味があれば過去のRock Magazineを読み返してほしい,¶¶Rock Magazine と会社との生活が続いていたある日、大阪四ツ橋の交差点で阿木さんから「これからどうする?僕はお前が必要だ。単なる話相手でいたいなら必要ないから今すぐ帰ってくれ」と言われた。¶殺し文句だよね。その後本格的に編集作業をするようになる。¶編集の時期には、朝会社に行って、夜編集室に帰り、1時間寝て会社に行くの繰り返しだった。¶半年後に会社に辞表を出し退職した。ついに100%ロック・マガジン社に就職することになる。1円も給料をもらったことないけど。¶貯金もすぐ使い果たし古本屋で本を売ったりした。その後2-3年は半分住み込みの生活が続くことになる。¶ただ、編集作業や本作りは面白かった。雑誌や本がどのようにできるのかを身をもって経験することになる。¶様々な業者との関わりができる。紙屋、写植、版下作り、製版、印刷、製本、発送、取次店や書店との営業なども行った。¶当時は東京の千駄ケ谷にも事務所があったので、一人で東京方面の書店を回って本屋さんともいろいろ話した。¶¶僕のRock Magazine での仕事は、Rock Magazine「MUSICA VIVA」「ERIK SATIE」を含む「01-05」「2002-2008」と『fashion』「1960'S」「Plastic」「machine」だ。その中でも「MUSICA VIVA」は1945年からのドイツ音楽復興運動の本だが1900年前後の無調以降の音楽とロックミュージックを繋ぐ試みをした。¶元々ロック・マガジン社に入る前に阿木さんを大阪のドイツ文化センターに連れて行った。その時に出会ったのが「MUSICA VIVA」というタイトルの本たった。1945年以降のいわゆるポストヴェーベルン世代であるミュージックセリエリスムを中心とした音楽運動を紹介した本だが、音楽だけではなく美術などの芸術の動きも平行して記載していた。¶後年、能勢さんのお誘いもあり、Rock Magazine「MUSICA VIVA」で紹介していた作曲家の業績をこの「MUSICK SPECTACLE」で放送した。もっと幅広く日本の「MUSICA VIVA」と題して明治以降の音楽運動も紹介した。¶※『MUSICK SPECTACLE』の「MUSICA VIVA」はリヒャルト・ワグナーの「さまよえるオランダ人」から始り2-3年に渡り続いた。詳細は「スペクタル能勢伊勢雄 1968-2004」に記載している。Rock Magazine「MUSICA VIVA」とその後の「ERIK SATIE」は、当時はとんでもない本だった。本当に阿木さんには感謝している。業界では何の反応もなかったが「ERIK SATIE」に関して秋山邦晴が唯一書評に書いくれた。¶¶Rock Magazine 誌では他にも様々な仕事をさせてもらった。ドイツ表現主義、カフカ、ルカーチの池田浩士さん、フーゴ・バル『時代からの逃走』翻訳者でありカンディンスキーの研究家土肥美夫さん、ヤンハインツ・ヤーン『アフリカの魂を求めて』翻訳者 黄寅秀さん、工作舎の松岡正剛さんなどへのインタヴュー。¶編集原稿の執筆。79年大阪芸術センターでのイベント「New Picnic Time」では企画を通じて各方面での関係が出来た。ちなみに名前はペレウブのアルバム名より拝借した。¶ミスターカイト、ノイズ、Dada、ウルトラビデ、

torerance、アーント・サリー、あがた森魚、藤本由紀夫、向井千恵、講演で松岡正剛、端山貢明、鋤田正義が登壇した。Vanity Record-LP は1978年から1981年にかけて作成されたが、何作かの製作にも立ち会うことになる。特にあがた森魚『乗物図鑑』製作では構想段階から音作りまでである。音作りの中心は Vanity 『Crystallization』のSABだったが、サポートとして旧知の藤本由起夫さんや向井千恵さんも参加依頼し、ビデ、タイキ、しのやん、Phew も参加した。明橋大二がピアノを弾いたり手作り満載のアルバムになった。阿木さんが工作舍に松岡さんに会うために同行することがよくあった。阿木さんは松岡さんに開口一番「松岡さんセンス悪いですね、こうしたほうが絶対いい!」と。¶僕は、彼らが本や思想について話しているのを聞いたことがなかった。¶当時ロック・マガジン社と工作舎は関係が深かった。というか僕は他の出版社の知り合いもいなかった。¶松岡さんはRock Magazine で連載していたし写真は佐々木光さんだった。遊塾生にも数人知り合いがいたし工作舍のスタッフも知り合いになった。¶ある日工作舎に松岡さんのインタビューに行った時に山崎春美を紹介された。初対面だった。¶「山崎君はRock Magazine から工作舍へ、嘉ノ海君は遊から Rock Magazine へ行ったのでエールの交換をしなさい」と言われた。山崎は覚えているかな。工作舍の遊塾では、編集は「R」チームと呼ばれていた。編集会議もされていた。しかし松岡用語が飛び交っており不思議な会議だった。ただ考えてみれば Rock Magazine を作りながら編集会議は一度も行った記憶がない。その時にかかわったスタッフに任されていたのが実態だった。¶¶松岡さんは編集工学というが、編集者は様々だ。阿木さんは編集者としては天才型だと思う。¶Rock Magazine など阿木さんの作成した本は(悲しいかなデザイナーは阿木さんのみだった)、どれもすばらしい。¶今昔の本を見ても斬新だし、大きさも紙質もすべて時代毎に変化している。¶取次店大阪屋の担当者に「また大きさ違うの?こんなことしてたら本屋こまるし売れないよ」とよく言われた。,¶雑誌で版形を変えるのはタブーだと。阿木さんのすごいのはスタッフにより過去のカラーを放棄することだ。表紙をとっても僕がかかわっていた「MUSICA VIVA」では Bauhausで2年前1976年ではルー・リードだった、しかも版形や内容もぜんぜん違う。紙もレイアウトもぜんぜん違う、当時阿木さんにマックス・シュテイルナーのことを話したことがある。シュテルナーはドイツ神学者で著書『唯一者とその所有』の中でエゴイズムの概念を唱えた。エゴとは決して独りよがりのことではない。阿木さんがいう個人主義とシュテルナーのエゴイズムは類似点が多いとも話した。僕は関わっていないが85年発刊の『EGO』を書店で見かけたときにシュティルナーのことを思い出した,¶またRock Magazine01「工業神秘主義音楽」では、ジェネシス・P・オリッジのINDUSTRY-RECORDSが中心だったが、僕はここに神秘主義という言葉を入れた,¶そのままOKになった。¶阿木さんから音楽に関しては何かを教えてもらうということはなかったが、一度だけレコード店でこれだけは買っとけ」といわれたのが、ドイツのファウストたった。¶もちろん今でも家にある。¶ドイツ音楽の表現主義的2拍子系譜はDAF/ディー・クルップス/ダー・プラン/パレ・シャンブルグ/シフなどのノイエ・ドイチェ・ヴェレになり、一方、神秘主義ノイズダンス音楽の系譜はホワイトハウス/サイキックTV/ナースウィズウォウンド/SPKへと展開した。彼らの音楽そのものからRock Magazine は作られたと思う。¶¶また阿木さんはよく「言葉はうそをつくが、音楽はうそをつかない」と言ってた。¶「僕は君らのような言葉型の人間じゃないから」とも。¶しかしこんなこと書いたら怒るだろうけど、人が好きな寂しがリ屋だったんだろう。雑誌は言葉を中心とした媒体なので、やはり言葉を信じていたんだと思う。(Rock Magazine はかなリ特異な存在だったけど)¶¶当時の一緒に仕事したスタッフ。高嶋清俊、石坂明彦、林春美、福田久、渋谷守、明橋大ニ、軽部伊智郎、羽田明子、中野由美子、中西信一、美川俊治、杉谷正明、永原康史ほか多くの人たち。¶特に中西とは、音楽のみならず哲学やオカルティズムなどの多岐にわたる話をした。僕とPEPPERLANDや能勢伊勢雄と繋いだのも中西だった。「遊会」に最初に参加したのも中西とだった。¶¶僕はロック・マガジン社での生活が2年を経過した81年のある日、重さに耐えられなくなり、様々な思いを抱えながら職場を放棄する。阿木さんとは話をしなかった。¶¶そしてその後何回か「原稿だけでも書かないか」と言われたが、阿木さんとの関係で原稿だけを書くことだけなんて考えられなかった。¶また僕は未だに音楽評論家の阿木譲を知らない。阿木さんの文章たくさん読んだけど記憶に残っていない。¶生きている阿木譲だからこそリアリティがあリ僕も活性化されたのだと今になって思う、¶ただ、阿木さんはその後も能勢さんをはじめ様々な人たちと関わり

『イコノスタシス』『EGO』『Rock Magazine2期』『E』『lnfra』『BIT』と様々な形態の素敵な本を作り続けた。¶こんな柔軟な編集者は後にも先にも出てこないだろう。改めて編集スタッフとの関わりで作品としての本や雑誌、レコードなどが作り出されたのだと思う。ブライアン・イーノが「音楽はスポンジだ」といったが、時代を表す鏡であるだけでなく、吸収し変化させる逞しさと柔軟性を持っていることも包含している。阿木譲の仕事を振り返るとイーノの言葉が思い出された。これは阿木さんのことだ。¶¶最近といっても1年くらい前になるが、


阿木さんのブリコラージュ(クロード・レヴィ=ストロースですね)を大阪セロゲージで聴いた。¶「先端音楽」という表現も阿木さんらしかったでも阿木さんの最後の出版物『0g_003 Written and edited by Yuzuru Agi 』が楽しみだ。どんな作品なのかが。¶阿木さんは「嘉ノ海が来たから現代音楽をかけよう」と、フランスINAレーベルのパルメジアーノのミュージックコンクレートをかけてくれて、お店のスタッフに「嘉ノ海はここら辺は詳しいから聞けよ」と紹介してくれた。¶結局これが最後の会話になった。阿木さんが最後に聴いていた音楽を追体験したいと思っている¶¶高橋巌が「死者に対してどんな言葉をかけるか」と問われたことがあった「阿木さん、あなたの生は意味かあった。僕に音楽の化学反応を起こさせてくれた」¶¶阿木譲が死んだって。チェッ。


阿木譲のプレゼント       能勢伊勢雄(PEPPERLAND主宰)

阿木譲氏か私に遺していってくれたものを語るのに沢山の言葉は必要ない。人を魅了し、虜にし、人生を変えてしまうほどの魔力を持つ「音楽の取扱かた」と「音楽は次の時代をうつす最も速いメディアである」ことを体験させてくれた。そして、「スノッブな(俗物)文化の持つ豊かな可能性」を体験させて貰った。この体験が無かったなら、おそらく高尚な音楽の世界へと道を踏み誤っていたと断言できる!!!!『Rock Magazine』の編集や執筆を巡って色々な事があったが、帰幽された現在、阿木譲との思い出は、時と共に楽しい思い出だけに濾過されて行く。

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追悼twitter抄(music_planet @musicplanet_jp )


2019/1/28

僕の「うたごえ」の「原点」について、「音楽」について。『ぼくはねぇ、昭和のはじめのうたを聴くと、身動きが出来なくなるんだよ。なんだろうね。』阿木譲さん。


2019/1/24

師の如き青きリンドウ種となる    moon


2019/1/3

Rock Magazine、EGO、0g、 阿木譲 追悼。 岡山PEPERLANDから賀状とFanzineが。Rock Mag. STUFFだった嘉ノ海幹彦氏能勢伊勢雄氏からの追悼文を興味深く読みました。特に嘉ノ海幹彦氏の文章は僕の見つめて来た阿木譲氏を克明に追想させる唯一の文章です。紹介させて頂きます

[ https://www.facebook.com/moon.anthem.3/posts/1951217964933693 ]


2018/11/24

2018年は、全ての体感が振り出しに戻って、蘇生が始まった年として、記憶されると思う。ボクの人生にとって大切な大切な年だった。ミライに耳を澄ます事を教わった大切な人とお別れをした。憧れの1920年代から一世紀、あたらしいなつかしいミライ、をリアルタイム体感した、近未来のはじまりの日常


2018/11/14

ボヘミアンラプソディ観て来たよ。はじめっからキュンキュンでじゅわじゅわのこみあげ結局始終ボロ泣きだった。観なければいけないもの、を観れたってカンジ。リアルタイムで身体に刻まれたものの再刻印はすごいね。フレディだからこその沁みる歌詞が…。Queenはハイパーなart rockの華だったんだよね


2018/11/13

The Mistys /Redemption Forest/Pregnant Mannequin/IVF Treatment Tapes を聴いてる朝。今日はボヘミアンに浸りにシネマに行こうと思っています。


2018/11/13

【追悼:この音楽の惑星であなたに出会ったひとりぼっちの人間として、このイヴェント&この動画を阿木譲さんに捧げます。ありがとうございました。dj.moon】


2018/11/25

惑星は恩師を偲び冬の音 moon


2018/11/13

【58才の誕生日に書かれたこのBlog感慨深く読ませていただきました】阿木譲氏を偲ぶ私的な物語 - 満月に聴く音楽


2018/11/4

阿木譲さんが亡くなられてから、うたごえのつどい、コスタリカラテンフェス、つれキャン、と、怒濤のような音楽全開のイヴェントラッシュの渦中で夢中に音楽に溺れて阿木さんに見せて貰った夢を形にする方法を引き継いだ。昨夜はキャンプファイヤーの前で、教わったblow up ago go!を追悼にかけました


- 0g_003 Written and edited by Yuzuru Agi - The first binding mock-up dedicated to AGI Yuzuru


2018/10/26

阿木譲さんを囲んで、誰彼と無く、おしゃべりをしています。ひととひとをつなぐ天才で、ほんとうに天使のまなざしと、ひみつのありかをいつも知っている豊かなうらやましい嗅覚に近い聴覚をお持ちだった。ゆめみていくぼくたちのための教科書を描きつづけたひとでした。存在の化学反応は忘れないよ感謝


2018/10/25

音楽の師と惜別し晩秋へ  moon


2018/10/25

R.I.P. 阿木譲 | ele-king三田格[ 三田格はひとつだけ阿木譲さんを誤解してる。阿木さんはBlack Musicも愛していたし、黒人はオシャレだと生前から思っている。 ]


2018/10/25

阿木譲さんとの思い出の数々がよみがえってきて、涙でぐしゃぐしゃだ。天界からあの笑顔の瞳で、Mr.スポックも、泣きたければ、いつでも泣いてもいいんだよ、って伝えてくれている。みんな阿木さんと居る時も、居ないで想っている時も、人生でとっても特別な時間を過ごしてたんだと想うよ、泣いていい


2018/10/25 ( ozamio @doramio )

阿木さん。おつかれさまでした。はじめてジョイ・ディビジョンを聴いたのは、阿木さんのお部屋だった。いっぱい怒られたし、ケンカもしたし、なんて傲慢で嫌な人だろうと思ったこともあったけど、尊敬してた。ありがとうございましたって、あいさつしたかった。

[ https://jp.residentadvisor.net/news/42696 ]


2018/10/25

11/11(日)『うたごえ喫茶 in 円満地公園 vol.5』のplaylistが決まりました。 Rock Magazine,0gの編集長心の師『僕にほんとうの音楽を教えてくれた阿木譲さん』が2018/10/21 天界へ還られました。 このたいへんな時間軸上で胸に響き渡る『美しき天然』『ゴンドラの唄』『夢であいましょう』を捧げます


2018/10/25

About | 阿木 譲 a perfect day


2018/9/13

阿木譲さんの0gの編集がピリオドを迎えられたんでしょうか?地球が悲鳴をあげ天変地異が押し寄せ人の心が疲弊し平成が終る大変な時代に、お身体を押して紡がれて来られたコンテンポラリーモダーンの夢。僕達はこの先どうやって魂を根源の力で浄化すれば良いのでしょうか?お仕事楽しみです。ご自愛を


2018/10/25

ありがとう★阿木譲 @AgiYuzuru さん『新しい音楽なんて無い。重力に捕われてる僕らには所詮音楽も概念もレコードとして新しく創られたモノとして新しいだけだ』『全ての音楽がラヴソングだよ』マークボラン今野雄二ルーリードデヴィッドボウイによろしく。僕も貴方の粋様の樣に音楽を愛しつづけます


2018/10/25

阿木譲さんは『よれよれになってじじいになってもよろしくな』と言ってくれた『これこのへん、*は気に入るんじゃ?このレーベルもおもしろい』『新しい音楽なんて無い。重力に捕われてる僕らには所詮音楽も概念もレコードとして新しく創られたモノとして新しいだけだ』『全ての音楽がラヴソングだよ』


2018/10/25

10/21 23:00大阪に戻っていました。Agiさんの近くに居たのだというだけで、なんだかほっとします。『僕は昭和のはじめの音楽を聴くと身動きが取れなくなるんだよ、なんだろうね』と話されてた氏の言葉の中を巡って今『うたごえ喫茶』をに身を置いています『僕は会わないといったら絶対に会わない』…。


R.I.P AGI @AgiYuzuru 『聴いている音楽はその人を表す』『僕の所へ来るしか無くなった人』『もうそろそろ*も』『言葉は僕を裏切る音楽は裏切らない』『死ぬまでこれ(Record/先端音楽)と一緒だな』『現場/現物しか興味が無い』『田舎へ行くのは反対だ』という氏に戴いたメッセージが脳裏を反芻します


2018/10/24 ( environment 0g @environment_0g )

2018年10月21日に阿木譲氏は天寿を全うされました。


2018/9/12 ( AGI Yuzuru @AgiYuzuru )

Francisco Meirino "The Ruins"

Stephan Mathie2枚

ROLAND KAYN / Simultan

待っていてもなにもやってこないよ、すべてはこの4作品で終わった。

ぼくにとってもこの4作品でながい音楽人生のピリオドを迎えた。さよなら先端音楽


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2013/10/31(阿木 譲 a perfect day 「The Stranger + Leyland Kirby」)

from

Leyland Kirby - Eager to tear apart the Stars

[ https://youtu.be/bZEeUD-U1bM ]


Leyland Kirby - They Are All Dead, There Are No Skip At All (10min25sec)2011

[ https://youtu.be/3tBOkAUtxX0 ]





ジェームズ・レイランド・カービーのすべての音楽から聴こえる(神の)超絶性とでもいうか、通常の限界を凌ぐ、凌駕する、または越える状態、トランセンデンスのメランコリックなこの深み、、、そして知的インスピレーション。音楽のそうした霊的な世界こそ、また人生の本質だと、ずっとずっと思い続けている、、、。


10月 31, 2013 阿木 譲 a perfect day 「The Stranger + Leyland Kirby」

[ https://agiyuzuru.wordpress.com/2013/10/31/the-stranger-leyland-kirby/?fbclid=IwAR13CCPU0OwqfeuQBCvA-TrXqPhtXErhm9lRRfW8lb9ue_c4CsEYZegvwxo ]



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**追伸**

音楽を、音を楽しみ、人生を生きる、こと。を教えて戴いた阿木譲さんが2018年

亡くなられました。


『ぼくはねぇ、昭和のはじめのうたを聴くと、身動きが出来なくなるんだよ。なんだろうね。』


とお話になられた事が、僕の「うたごえ」のあそびの原点にあります。

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